本ページでは、パラグアイの歴史と日系移住地についてご紹介します!
目次
パラグアイの歴史
パラグアイは、当時の宗主国であったスペインから1811年に独立し、1814年に初代大統領のホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア(以下、フランシア)が鎖国政策を展開し、独裁的な方法で国内を統治しました(藤掛2022)。フランシアが1840年に没した後、大統領に就任したカルロス・アントニオ・ロペス(以下、ロペス1世)は開国し、富国政策に務め、ヨーロッパからの先進技術の導入が進められ、1860年には6万人に及ぶ南米最強の軍隊を有することになりました(ibid.)。1865年5月、秘密裏にブラジル・アルゼンチン・ウルグアイの三国で同盟を結び、パラグアイに宣戦布告し、後に三国同盟戦争と呼ばれる戦争に発展しました(ibid.)。三国同盟戦争は5年にわたる長期戦となり、戦前は52万人だったパラグアイの人口は戦後21万人と大きく減少し(人口数は異説有)、人口比率は男性1に対し女性5(男女比も異説有)となり(ibid.)、一夫多妻制が非公式に容認されていた時期もありました(藤掛2018)。1932年からパラグアイとボリビアは、チャコ地方北部の領土をめぐり、後にチャコ戦争と呼ばれる戦争と発展し(田島2011)、戦力を使い果たし3年後の1935年に停戦、1938年に終戦協定が成立しました(今井2013)。その後、1954年軍事クーデターが成功し、首謀者のストロエスネルによる独裁政権が誕生し、国防・治安関係費を増額し反政府活動を抑圧しました。そして、1982年に起きたクーデターにより、パラグアイ最長の35年に及ぶ独裁政権に終止符が打たれました(ibid.)。
日系移住地について
日本とパラグアイは1919年に国交を開始し、日本人の移住は1936年から始まりました。第二次世界大戦に移住は一時中断されましたが、戦後に国交は回復され、現在は約10,000人の日本人、日系人がパラグアイ各地に居住しています(藤掛2015)。日本とパラグアイの関係は、経済技術協力と推定約1万人を誇る日本人移住者及び日系人の存在を基盤として友好協力関係にあります(外務省2025)。
本基金がカウンターパートを務めプロジェクトを展開しているパラグアリ県ラ・コルメナ市は、首都アスンシオンから南東に130㎞離れた位置にあります。また、ラ・コルメナ市は1936年に初めて日本人移住者が入植した地域となります(藤掛2015)。ラ・コルメナ市における主な収入源は農業で、収穫される農作物(果物、野菜等)を街の市場や仲買人に販売し、生計を立てていますが、その額は十分ではないとされています(ibid.)。
YNU×JICA草の根プロジェクトについて
ミタイ基金では、下記のプロジェクトのカウンターパートを務めており、日系移住地であるラ・コルメナ市における生活改善プロジェクトに貢献しています。2024年度には、長年の夢であった情報センターIKOIを開設することができました。ミタイ基金がカウンターパートを務めるYNU×JICA草の根プロジェクトはこちらから活動をご覧いただけます。
●JICA草の根技術協力事業 第一フェーズ『パラグアイ農村女性生活改善プロジェクト~横浜から夢を紡ぐ~』(2016年から2021年)
●JICA草の根技術協力事業 第二フェーズ『パラグアイ複合的農村開発プロジェクト~アグリツーリズムの展開に向けて~』(2022年から2025年)
*本ページの引用文献は下記の通りです。
藤掛洋子(2015)「パラグアイ農村女性の生活改善プロジェクト : 農村女性のエンパワーメントとJICA草の根技術協力における大学の役割」、『常盤台人間論叢』、第4巻、pp.89-114。
藤掛洋子(2022)「パラグアイ戦争:女性たちからみた三国同盟戦争」、伊藤秋仁・岸和田仁編著『ブラジルの歴史を知るための50章』明石書店、pp.141-146。
田島久歳(2011)「チャコ戦争:「国民」としての意識形成」、pp.130-135。
今井圭子(2013)「パラグアイ」、大貫良夫、落合一泰、国本伊代、恒川惠市、松下洋、福嶋正徳監修『新版ラテンアメリカを知る事典』、平凡社、pp.556-559。


