私たちの思い

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特定非営利活動法人ミタイ・ミタクニャイ子ども基金(以下、ミタイ基金)は、より広く有志より基金を募り、パラグアイの農村部の子どもたちの教育や保健・衛生状況のさらなる向上を目指した活動を展開していきたいと考えております。
これからはみなさまとともに、現地で活動する彼ら、彼女らとゆるやかなでしなやかなネットワークを維持しつつ、活動を続けて参りたいと考えております。
皆様方のハートをほんのわずかで結構です。パラグアイの農村で暮らす人々や子どもたちに向けていただければ、とても嬉しく思います。

活動指針

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途上国における教育の不十分さ、地方や農村部ほど女性の地位が低いという現実に、徹底した現場主義=フィールドワークを貫いており、対象地域の人々の視点に立った活動を展開しております。
現在は主にパラグアイにおいて学校建設や教育支援活動等を行うとともに、これらの活動を通じ日本国内においても「ジェンダーに配慮した国際協力」を学ぶことの大切さをわかものたちにも届けていきたいと思っています。
今後もパラグアイのみならず、他地域での活動も展開していきたいと考えています。
2013年のパラグアイ学校建設に際し、若林美代名先生に多大なるご尽力を頂きました。以下にプロフィールを掲載しております。

 

若林先生

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昭和 8年 京都市下京区にて出生
昭和29年 京都学芸大学(現京都教育大学)英文学科卒
昭和29年 京都市立大内小学校に勤務
昭和35年 京都市立藤森中学校に英語教諭として勤務
昭和61年 京都市立弥栄中学校に勤務
昭和63年 京都市立桃陵中学校教頭に昇任
平成 4年 京都市立桃陵中学校 第14代校長に昇任
平成 6年 定年退職

若林美代さんと教育
若林美代さんが教職に就いたのは、昭和29年4月。国立京都学芸大学(現教育大学)英文学科を卒業したての21歳。当初6年間は小学校に勤務され、その後、教員免許のある英語指導を活かすべく、昭和35年4月に京都市立藤森中学校に転出されました。これがその後の彼女の教育者人生を決定づける最大の契機となりました。
当時、藤森中学は京都市内第2の広さを有する“被差別部落”が校区内にあり、住民の生活環境は全てに亘って低位に置かれ、貧困故に学校教育を受容できない子供も多く存在していました。
学校としては、子供たちの学力向上と進路保証を目指し、家庭訪問による親や地域住民との話し合い、地域における夜間の学習指導など、積極的な取組みを行いましたが、激務により転出を希望する教員も多く、教育環境の改善は遅々として進みませんでした。

献身的な活動
昭和39年1月、これらを問題視した京都市教育委員会は“同和教育方針”を発表。市行政として、同和教育を行う学校に対し、教員人事や予算を最優先で充当する体制を強化し、同和教育の取組みは年を追って改善の方向に向かいました。
その中で最も重要なことは、教育を実践する教員の定着にありました。こうした中、若林美代さんは部落住民の低位な実態を改善しなければならないとの強い信念から、多くの教員が転出入する状況下にも揺らぐことなく、25年間の長きに亘って、種々の教育活動に献身的に努めてこられました。
昭和50年代に入って、ようやく教員の定着率も向上し、彼女は“我らのボス”との愛称で教員仲間から敬愛され、頼もしいリーダーとして“藤中教育”と謳われるほど、全市的にも注目される学校作りに貢献されたのです。
昭和55年11月、彼女の20年間の同和教育への努力、成果が評価され、京都市教育委員会は教育功労者として表彰を行い、更に昭和59年11月には通算30年にわたる教育活動に対し、永年勤続表彰を行い、その労に報いました。

校長に昇任
昭和61年4月、彼女は教育委員会から乞われ、当時、課題の多かった京都市立弥栄中学校に転出、僅か2年間ではありましたが、藤森中学校での経験を如何なく発揮し、同中学校の課題改善に寄与されました。昭和63年4月には、卓越した手腕が認められ、京都市立桃陵中学校の教頭に推され、次いで平成4年には同校の校長に昇進。平成6年3月、惜しまれつつ、長い教員生活に終止符を打たれました。
40年に及ぶ彼女の教員生活において、その大半を藤森中学校における同和教育に捧げ、同地区の教え子からは“母”と慕われるなど、彼女ほど一途に一地域・一校の教育に尽くした女性教員は他に類を見ず、まさに京都市の教育界に不滅の足跡を印したと言っても過言ではありません。